セピア調に全てをぼかされた

昭和世代が異様に好む映画の一つとして「ALWAYS 三丁目の夕日」という作品が挙げられる。

この作品は昭和33年の下町の東京を舞台にしており、そのレトロな街並みを再現すべく我が国のオハコである「ミニチュア」とCGを駆使してあえてセピア調の映像を多用することで人気を博した。特に国内では評価が高く、第29回日本アカデミー賞の全部門で入賞を果たした。

さて、この前振りで分かりうることだが私はこの映画に対して半ば反射的に、あるいは生理的に嫌悪感を抱き続けてきた。確かにこの頃の堀北真希はいつみても可愛いし流石に僕がアイドル以外で初めて写真集を買っただけのことはある。

閑話休題

そもそもなぜ「平成」生まれ「令和育ち」の我々がいまだに「昭和」の象徴に悶々としてしまうのか。その理由こそが私がこの映画を嫌う一つの理由になっていると思う。

セピア調というと我々はどういう印象を持つものだろうか。

そう、ノスタルジーであるとか今風にいうと「エモい(最悪の日本語)」とかそう言った類のものになるはずだ。

しかしながら「その印象は必ずしも我々の視聴の態度として正しいものなのか?」

言い方を変えるならば「その印象は必ずしも我々の主体的な感情の湧き起こりから生じたのか?」

当然そうではないはずだ、我々は生まれながらにして昭和世代やあるいはもっと上の世代たちが作った社会のあり方の中で「そうであるべきもの」をすり込まれてきた。

だからセピア調の写真そのものに望郷の念を抱いてしまうことだとか、ありもしない心象風景に引きこまれるのが浅はかだと言いたいわけではない。「そうあるべき」とされているのだから読み手の心情に是も非もない。

もっというのであれば私はこの映画そのものが嫌いなわけでもない。

我々が生きる日本にはストラクチャー(ガワ)と、そこに文脈を与えてきたスキーム(軸)が明確に、尊大なおももちで存在している。その代表例がこの映画だっただけだ。我々はセピア調のものを見ればノスタルジックな気持ちになるのが「道理(軸)」であるし、そもそもノスタルジックな「パッケージ(ガワ)」に魅力を感じるのは「当然」だとされている。

「平成・ゆとりは〜」という論調のおじさんたちに嫌気が差したわけでもないし、コロナ渦で若者のせいにしつつマスクを外して街中で酔っぱらうおじさんたちに怒りの矛先を向けているわけではないが、「パッケージ」そのものによる評価が善悪の意味すら孕んでいるのにはもう疲れてしまった。

僕という個人が生きていてもガワだけに善悪の判別が下される。我々は学歴だとか容姿だとか、それに連続性を持たせる文脈などは評価がされないできた。それゆえ、そう言った経験に対して我々は無頓着であるし、無意識的にそう言ったロジックを使用している。だからこそ私もパッケージに気を取られる思考の可能性を常に孕んでいるし、そこに嫌悪する瞬間もある(ブーメランですよ、と言いたい。我々でさえ昭和の世代にこうしたレッテルを張っているし)。しかしながら「そうあるべき」というマニュアル的なバイアスを受けて生きていくのは誰にとっても、とても疲れることだと思う。

この映画を見るとこの人生で受けてきた小さな昭和のバイアスに一気に被曝したような気持ちになる。いわば親や教師に今まで囁かれてきた「〇〇くんは〇〇(属性)なんだから〇〇しなさい」という言葉たちの蓄積に一挙に触れてしまったようなトラウマ映画だと言っていい。

だからこそ、こんなに嫌な映画なのに僕も反目で眺めざるを得ないのだ、「スポーツより勉強」「容姿より結果」「個人より出自」というような僕というパッケージの中に生まれながらに蓄積してしまっているそれを、実家に帰って嫌というほど感じたそれが、セピア調になって目前に現れているのを。