その6

祝日のない6月の長すぎる脚がようやく7月を踏みしめようとしている。今年の梅雨はいつ明けるのだろう。いや、もう明けたのかもしれない、どちらにせよ雨が毎日続くよりはマシだし、なにより6月の冗長で、じめじめと陰湿で、晩春とも初夏ともつかないどっちつかずの中途半端な感じが大嫌いだ。

だいたい梅雨ってなんだ。

 

この時期になると日々冷房をつけるかどうかの葛藤が湿気と共にじっとりとした汗をかいた僕にまとわりついてくる。日中の不快とはやってられないし、かといって夕方まで耐えて仕舞えば夜は比較的過ごしやすい気もする。しかしいざ寝ようとすると少し寝苦しい、そんな風に考えると、梅雨特有の空気感も相まってなんともモヤっとしてしまう。

 

なにより冷房をつけるか否か、それを決める僕の心理状況もまた梅雨のそれなのである。

電気代と快適性の間に揺れ、また、来るべき夏の苛烈に備え、ここは我慢したい、という気持ち、そういった多くの感情がたかがあの小さなボタンを押す行為のなかで極相状態になっている。

 

何事もはっきりしている方がいい。

結局この時期に適切な季節の表現がないのがいけないと思うし、だからこそ曖昧性を回避するため梅雨という言葉が作られたのではないのか。

そのために梅雨ということばは、あるいは梅雨そのものが四季という悪しき概念の中で肩身が狭すぎるが故に曖昧性を伴い、如何ともしがたい不快感を僕に押し付けてくるのだ。

四季を定義したもの、許すまじ。

結局、この低気圧が頭の上を塞ぐ曇天と、湿気と不快な暑さが織りなす最低な閉塞感が僕達の優柔不断をいとも簡単に加速させてくるのだ、所謂、「冷房のジレンマ」。

 

梅雨も梅雨で可哀想でもある。きちんと名前を与えられておきながら、個性を与えられておきながら、なんともどっちつかずであるその性質故にここまで言われてしまうとは。不憫そのもの。

 

だから、たまには梅雨も窮屈なその縛りからひょっこり顔を出してきてもいいと思うのだ。

 

遠慮がちにならなくていい。

春夏秋冬はもっと傲慢だ。

時には主張が大事だって話だ。

じとじとと雨を降らせ、たまには僕達をうざがらせてみればいい。

今年はあまり雨が降らなかったし甘んじて雨も受け入れてあげよう。数回ならね。

 

 

 

ご自慢の拡大解釈と論理の飛躍でつい梅雨に同情的になってしまった。

 

やっぱり梅雨は最悪だし。

そう思い返し、小さめの舌打ちとともに重い腰をあげて冷房を入れたのが6月も終わりになる今日。

室外機が今年初めての回転をはじめ、コトコトコトと音を立てる。もうすぐ夏が来る。

ちがうな、これが梅雨だ。

歯切れが悪い乾き方をしたベランダの洗濯物がそう言っている。