ネオンジェネシスとはなんだったのか

早朝新宿に立ち、やるせないような胸がすくような気持ちで私は公開初日を迎えた。

実際のところ、前作から8年、シンゴジラからは4年という月日が流れており私とエヴァを取り巻く何もかもが変わり、何もかもが滞留したままだった。

そんな中で大学4年の3月という自分の節目になるようなタイミングで公開初日を待つ事ができたことに対して率直に言うとありがたく感じていた。

つまり常々私はエヴァの大きなフレームにはイニシエーション的な部分があると言い続けてきたため、私が学生生活を終えるこのタイミングでの公開というのはかなり都合のいいところがあった。

有り体な感想になってしまうがシンエヴァは予想通りというか答え合わせの部分が大きく、感動と歓喜というよりは納得と安堵、開放感の中で「終劇」の文字を見た。

エヴァにおいては内部と外界、自己と他者、子供と大人の精神的な境界をATフィールドという物理的障壁が分断していたが、それらをLCLに溶かしてネバーランドにしたのが旧劇場版や貞本漫画だったと理解している。すなわちそこに大人になる過程はなく、中高生の思春期、そのパトスが溢れ出るようなものだった。

一方でシンエヴァにおけるそれぞれの解釈は異なる結末へと帰着した。決戦の前、アスカはシンジへと別れの言葉を告げ、過去の自分の思いとの訣別をする。曰く、「大人になっちゃったのよ」。ゆえにアスカはマイナス宇宙における「大人列車」には存在しなかった。あの列車にいたのはまさにシンジが大人になるための儀式に必要な人物であり、皆が過去や自分への訣別を必要としていた。だからこそシンジはゲンドウそのものであり、カヲルやレイも他ならなかったと言える。

美しかったのはアスカが大人になっていく描写だった。「式波」シリーズの存在の暴露。そして2枚残るその「式波」シリーズの写真(惣流と式波の世界線が合理性を持った瞬間である)。そして大人へ。彼女は旧劇場版とは異なる形で浜辺でのシーンを演じた。艶やかな見た目への変化だけでなく、大人になり、もう自分を拒むものすら受け入れるようになったシンジとのやりとりを経て、本作で初めて恥じらいを見せてくれた。

そんなアスカがマリにヒロインの座を明け渡してしまったのは何故だったのか。それはマリこそが真に「外」の人間だったからだと思う。シンジと2人との出会いは同じく屋上で、しかも2人とも外部の人間であったが真に唐突で彼が分かり得なかったのはマリだった。だからこそ彼女はシンジを「助け」「外に連れ出す」存在であれたのだと思う。劇中でアスカが「ガキに必要なのは恋人じゃなくて母親」と発言したがガキが大人になるには「他人」が必要だったのだと、それゆえマリがいつも眩しく見えてしまうのだと納得してからは頭を抱えてしまうほどに痛快なエンディングだった。これは2回目の視聴で得られたことなのだが冬月はマリに「イスカリオテのマリア」と呼称していた。私は一回目の視聴時は「マリア...!救済のマリアか...!」と軽く感動を覚えたのにとどまってしまったのだがイスカリオテとは裏切り者である。救済ではなく裏切り、唐突性こそが自分という殻を破るには必要だったのだと理解した。

(余談ではあるがイスカリオテ(ユダ)は母に恋をして父を殺した「オイディプス伝説(エディプスコンプレックスの由来)」に関係が深く、エヴァ自体とのシナジーもあるためあまりの出来の良さに軽く感動を覚えるほどであった。)

他にもディティールをかい摘めば語り明かせることもあるかもしれないが確信も知見もないためこの辺りで筆を置くことにしたいと思う。

なんにせよシンエヴァンゲリヲンは我々が待つに値する、いや、我々を待つ作品であった。8年の間に我々も見た目ばかりが大人になり、イニシエーションらしきものもなくここまできたがここでようやく大人になれる、そう感じるところが多かった。ゆえに、「8年待って良かった」ではなく「8年、今日まで待ってくれてありがとう」と言いたい。そしてこれを読み、共有してくれた全てのチルドレンにおめでとう。